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Contents
はじめに
人生の転機はいつどこに潜んでるかわかりません。
私自身の転機は大学受験に失敗して、1浪後も失敗した時でした。
その時は
どうしていいのかわからない。
そんな時期でした。
境遇は違えど、そういう時期が誰しもあると思います。
これは上手くいかなかった先に待ち受けていた物語です。
この先はとても長い文章になっております。お急ぎの方はぜひ結論まで『ジャンプ』を使ってみてください。
アメリカで初ライブ
アメリカへ留学
2浪を覚悟した矢先、母が留学を斡旋する学校を偶然見つけました。元々海外に興味があったため、そこへの進学を決めました。そこで1年半通い、英語を学んだ後に、ニューヨークの大学に進学しました。
ニューヨークは寒い時期が長く、1年の半分以上は雪が降っていた気がします。気がするだけで、本当にそうだったのかはもうはるか昔なのであんまり覚えていません(笑)
ただ毎日が本当に楽しかったことだけは覚えています。新しい環境だったので、勉強も楽しくできました。終わってから図書館で勉強したり、その合間で友だちと会話をしたり、週末は買い物に行ったり、BBQしたり、運動したりして過ごしました。
卒業する時だけは少し苦労しました。私は頭の良い方ではないので、友だちとの卒業旅行の最中も、落とした単位の授業をオンラインで必死に受けていたのを覚えています。(笑)落としたのは『クリティカルシンキング』という授業だったのですが、毎回お題に対するエッセイを提出して、期日以内にそのエッセイが認められないと単位をくれないという授業で、本当に厳しかったのを覚えています。
バンドへの誘い
そんなある日。転機が訪れます。友人のYasu(Dr)が『バンドを組もう』と誘ってくれたのです。もう一人の友人のYouはギターもベースも弾ける子だったので、自分がやるとしたらギターかベースの好きな方。両方とも弾けないけど、返事は『組もう』でした(笑)
ちなみに組んだ時点で発表するステージは決まっていて、それは3ヶ月後でした(笑)ちょうどその時、サンクスギビングデーだったこともあり、友人のYasuの家族と一緒に100ドル程のギターを購入し、そこから練習の日々が始まりました。
当時はそれとは別にダンスもやっていて、発表会(バンドと同じお祭りのステージ)に向けて練習をしていました。なので、授業終わったら、ダンスの練習して、その合間にギターの練習をしていました。今思うと中々の過酷なスケジュールですが、その時はみんなで何かを作っていくのが、本当に楽しくてとても充実した日々でした。
初ライブ
ライブは『Culture Showcase』という、いろいろな国の文化を発表する会のステージで行いました。当日は授業のExtra Pointが観にくるだけでもらえるということもあり、200~300人ぐらい入れる会場はパンパンでした。
初ライブが海外で、しかもお客さんが満員であることが確定しているステージというのは中々恵まれた環境でした。
そしてライブもとても盛り上がりました。知らない曲の筈なのに、完成がすごかったのは覚えています。そして幸運にも照明のおかげで、客席が真っ暗で見えなかったこともあり、全く緊張せずに演奏ができました。
そのライブの後に地元のお祭りでも演奏してほしいと言われて、お祭りでも演奏しました。それはあんまりお客さんも来なかったけど、お祭りの雰囲気もあり楽しかったです。
あの時ギター弾けないけど、バンドに加入してよかったなと改めに思いました。
できるかできないかよりも、やってみる
その気持ちが大切だなと改めて思いました。ただやるからには全力で。
このバンドを組んだことで、本当に奇跡のような時間が過ごせました。
看護学部への編入
きっかけと出会い
留学してしばらくした頃、友人がバイク事故にあったと連絡がありました。
『もう意識が戻らないかも』
そう聞いた時、初めて『死』が実際は身近にあることを感じました。
今ではその友人は回復し、普通に暮らしていますが、その時は自分の無力さを感じていました。それまでも医療従事者になることは決めていたのですが、その時初めて『看護師』という夢が頭の中に生まれました。患者さんにもっとも近い職業が看護師だと思ったからです。
その後いろいろ調べました。その過程で出会ったのが
『ホスピス』と『パッチアダムス』
です。調べれば調べるほど、いつかこういう場所で誰かの役に立ちたい。そしてこういう医療従事者になりたいと思うようになりました。ちなみにパッチアダムスは医師なんですけど、仕事をしている姿というより、患者さんと向き合う姿勢に感銘を受けました。
そしていつか彼のように
自分にしかできないことを見つけよう。
そう思うようになりました。
ちなみにその時に出会った映画がこちら↓
看護学部への編入
調べてからの行動はとても早かったと思います。
すぐに担当の教授に相談に行きました。日本ではどうかわからないのですが、アメリカでは何かあった時は担当の教授に相談するのが最初にすることになっていました。そこで相談してから、次は看護部長に教授から連絡してくれて、すぐに面談する手続きがされました。
編入試験などはなく、面接次第で編入が可能とのことでした。
そして面談をしました。今の自分自身の気持ちを伝える内容のもので、難しいことは聞かれませんでした。面接っていうよりは、普通の会話みたいな感じでした。ただその中で何度も言われたのが、熱意は伝わるが、言葉の壁を乗り越えるのが大変かもしれないということでした。日常会話だけでなく、医療英語も覚えるのは本当に大変だからです。しかも英語が堪能な人でも単位を取れない人がいるぐらいなので、その点を心配していました。
しかし私自身の意志は固く、『頑張ります』と伝えました。
面接の結果は
看護学部への編入は可能とのことでした。
そしてすぐにテキストを購入し、授業に挑みました、
しかし・・・
挫折
現実は厳しかった。
看護学部では第2のキャリアとして入学してくる方が多く、進学する背景も様々でした。そしてその中に入っていくことは容易なことではありませんでした。当然のことながらグループには入れず。課題もとても多く、これはここでは無理かもしれない。いや無理だ。そう感じました。
そして授業が終わった後にまた相談しに行きました。看護部長は優しくて、『あなたの決意は固いのだから、諦めないで、どこかでまた挑戦してみて。』と言われました。
そこで帰国してから看護師になろうと決心しました。
教科書を返品しに行ったり、学部を再度変更したりとあっという間の看護学部でしたが、挫折はしたものの、とても貴重は経験になりました。
ちょっと悔しかったけど
挑戦できたことによって、後悔は全く残りませんでした。
パッチアダムスと会う
ある本との出会い
帰国してからは、看護学校選びを始めました。ただ留学でだいぶお金を使わせてしまったので、自分でバイトをしていける専門学校にしようと思い、近くで1番安い専門学校に行くことにしました。3年間で100万円いくかいかないかぐらいだったので、これなら頑張ればいけると思い選びました。
必須教科は数学と国語、そして英語でした。確か。じつはそこの専門学校はもう廃校になってしまい、もうなくて今ではもう調べられないんです。
そんな中で、ある本に出会います。留学中に知ったパッチアダムスの本で『パッチ・アダムス いま、みんなに伝えたいこと—愛と笑いと癒し』という本です。彼はホスピタルクラウンの第一人者として活動している医師です。大体の映画は、誇張されて表現されることが多いですが、正直言って、この映画は逆でした。なので彼に興味がある方は、映画だけでなく、本も読むことをお勧めします。
ホスピタルクラウンとは
クラウンが患者さんの表情や気持ちを読み取りながら、手品や皿回し、バルーンアートなどのパフォーマンスを行います。笑うことで病棟の雰囲気が明るくなり、治療に立ち向かう気力を取り戻す効果が期待されています。
本はこちら↓
実際の彼の活動がこちら↓
手紙
そして専門学校の受験が終わってひと段落したぐらいにある人から手紙が届きました。
それは海外からの手紙でした。その時は確か、アメリカの友だちにも手紙送っていたので、その返事かなって思っていたら・・・
まさかの
パッチアダムスからの手紙
でした。
その時の衝撃は今でも覚えています。実は本の最後に住所が書いてあって、そこに『いつかあなたのような医療従事者になって、あなたと働きたい』みたいな内容の手紙を書いたんです。それは返信が必要な手紙というよりは、ファンレターみたいな形でした。
届いた手紙には、一面にびっしり文字が並んでおり、『いつか一緒に働こう』と書いてあるとともに、ある人物の名前と電話番号が書いてありました。そしてそこに電話してみたんです。
ある人との出会い
見ず知らずの人の家の電話にかけたるのは、初めてだったのですごく緊張しました。1回目は電話に出ず。2回目も電話に出ず。
完全に諦めました。
その時は不思議と残念な気持ちはありませんでした。
看護学校のこともあるし、その時はやることもたくさんあったので、しばらくはそのことを忘れて生活していました。でもどこかで何か他の方法でパッチと繋がれないかなとは考えてたと思います。せっかく手紙までもらったし、ここで諦めるのは勿体無いなとは思っていたので。
そこで私はパッチを知るきっかけになったMixiのパッチアダムスのコミュニティーに戻りました。そこはたくさんの彼のファンが集まっていて、そこを束ねる管理人がいるのを知っていたからです。もしかしたらここの管理人にメッセージを送ったら違うルートで彼に会えるかもしれないって思いました。
これまでの経緯を全部書いてメッセージを送りました。
そうしたら
返事が返ってきたんです。
そしてそこで衝撃的な事実を知ります。それはその管理人こそが、パッチが紹介してくれた方だったんです。人生って本当に面白いなって思いました。そして実際に会うことができたんです。
この出会いで、私の人生は変わりました。
それから実際に会うことができ、パッチのことだけではなく、人生のことだったり、仕事のことだったり、いろいろな話をしました。今でもそれが私自身の根底にありますし、そこで繋がった仲間たちには今でも助けられています。
ちなみに何かを買わされたり、勧められたりするようなものではないです。むしろもらってばかりなぐらい。(笑)
そしてそこから少し時間が経つのですが、パッチに実際に会える機会がやってきました。それは東日本大震災があった年です。パッチから日本を元気にするために何かしたいという話が持ち上がり、それが実際に実施されるときが来たのです。それがパッチと私が初めて会った日です。
すまいるバトン
この日、50人近くのクラウンが六本木に集まり、みんなを笑顔にする活動をしました。実際の映像もあるので、ぜひ見てみてください。少しイメージが湧いてくると思います。
私はこういう活動が初めてだったので、スタッフとして同行させていただきました。そしてそこには映画で見た以上の存在感のある彼がいました。道ゆく人に片っ端から声をかけていきます。その格好を見たみんなの反応は様々ですが、不思議とみんな笑顔になっていました。そこに会話という会話はありません。ちょっと警戒してても、行動で笑わてしまうのです。
そしてすごいなと思ったのは、すべての人に同じ対応じゃないということ、この人がどういう人なのかをおそらく接した時に察して、その人に合った対応をしているんです。コミュニケーション能力に長けており、傍で見ているだけで、こちらまで幸せな気持ちになれました。
参加できてよかったと心から思いました。
決起集会
話は戻るのですが、実はこのイベントの前にスタッフやクラウン達で集まる決起集会みたいなものがありました。顔合わせみたいな感じかな。そこでみんながそれぞれ自己紹介するためにパフォーマンスやスピーチをしました。
だた私自身はスタッフとして参加するので、特にパフォーマンスとかする必要なかったんですけど、みんなに覚えてもらえるために、何かやってみようと思い考えました。それが
作詞作曲でした。
正直曲を作ったことはなくて、できることといえば、留学したときに弾いたギターだけ(笑)でも何か元気になるような歌をこのイベントのために作りたいと思ったんです。大体1週間ぐらいかな。曲自体はすぐにできて、歌詩作りに時間がかかりました。
そして完成した曲を、人生で初めて弾き語りをしました。今考えるとすごい度胸だなって思います。(笑)今だったら絶対にできないけど、その時はもうテンションが上がってたからできたんでしょうね。
歌ったあとの感想は、歌声はともかく、曲は良かったという意見でした。曲には自信がなかったのですが、中学のときにバンドのボーカルに何度も誘われたことがあったので、歌声には自信はあったんですけどね(笑)まさかの真逆の反応に落ち込んだのを覚えています。(笑)
ただ反応はどうであれ、挑戦しなければ、この曲ができなかったと思うと
挑戦してよかった。
そう思える出来事でした。
そしてなぜその話をしたのかというと、それが次につながったからです。
あの曲が紡いだ縁
あるアーティストとの出会い
決起集会のことがきっかけで、作曲することが楽しくなっていきました。実は、元々は小さい頃からピアノを習っていて、少しだけではありますが、ピアノを弾くことができました。ただ当時は練習もしないで、ただ習っていただけなので、上手では全くなく、弾けるともいえないぐらいの実力でした。
それでも想いだけは強くて
いつか私自身が作った音楽でレクリエーションができたらいいな。
そう思うようになりました。
それからはアンビエントミュージックに興味を持つようになり、いろいろな場所で視聴をしては、こういう感じの曲作ってみたいなとか、こういう展開かっこいいなとかそうやって聴くことで勉強していきました。
そんな中で出会ったのが、
というアーティストでした。
今までに聴いたことがない歌声で、聴き入ってしまったのを覚えています。どんな声なのかというとウィスパーヴォイスという囁くような声で歌う感じです。それまでは、声のない音楽を視聴していたのですが、たまたまアンビエントミュージックのコーナーの近くで、大きく宣伝されていたので運良く出会うことができました。そして購入して、家でも繰り返し聴くようになりました。
ちなみにその時に出会ったのがこの曲です↓
あの曲
これだけだったら普通の出会いなんですけど、そこから嘘のような出来事が続きます。
ある日、調べているとこういう記事に出会ったんです。
piana 1st&2nd アルバム 再リリース実現プロジェクト
そこにはこう書かれていました。
これはもう支援するしかないと思いました。実は、他の曲も聴きたかったんですけど、廃盤のために見つからなかったんです。なのでもう本当に奇跡だなと思いました。
そして支援のプランの中で、1つだけ引っかかった支援があったんです。
それはこの支援の赤字の部分です。
金額は高く、即答はできなかったのですが、このプランに目を惹かれました。
しばらく悩みましたが、この機会を逃したときに、後悔するし、お願いする機会なんて一生やってこないなと思い、意を決して支援しました。
実は悩んだことには金額だけでなく、もう一つ理由がありました。それは、私自身が作っている曲はインストがメインで歌詞がないものばかりなんです。だから歌入れはコーラスになるのですが、コーラスは必要なのかな。曲の雰囲気が変わらなかったら勿体無いなという点で悩みました。
ただきっと変わるだろうという思いもあり、支援することに決めました。
そして実際にメールでこの曲のバックコーラスをお願いしたいと連絡して、調整していく中で、それは勿体無いかもと思うようになりました。そしてその時に思い出したのが
決起集会の時に歌ったあの曲
でした。
しかしながらあの曲は歌詞もほぼ覚えていなくて、メロディーだけ覚えている程度の仕上がりだったので、とてもじゃないけど、この曲をお願いしますと言える段階ではありませんでした。そのことを相談してみると、時間はどれだけかかっても大丈夫だから、一回作ってみようというありがたいお言葉でした。
奇跡
看護師をしながらだったので、製作に当てられる時間は限られていて、それでも良いものにしようと創っていきました。いろんな曲を聴いて、こういう構成もいいなとか、音の作り方はこの方法が面白いなとか、私自身が好きな要素をたくさん入れながら納得するまで創り込んでいきました。
そして完成したものを送り、歌声を入れていただいたものを聞いたのですが、
最初から最後まで鳥肌が立ちっぱなしでした。
全く別の曲に聴こえるぐらいすごい曲になっていました。そしてそのデモを聴いていると、他のいろんな音だったりコーラスが聴こえてくるような気がして、その通りにどんどん創り変えていきました。1曲創るのに半年近くかかったし、何度も書き換えたのを覚えています。もはやリターンのレベルではなく、そのやり取り全ての対して、ものすごく丁寧に対応していただき、本当に感謝しても仕切れないぐらいでした。そしてさらにミックスとリマスタリングもしていただけるということでお願いしたのですが、それがなんと新海誠監督の『言の葉の庭』のサントラをつくったKASHIWA Daisukeさんだったんです。完成した曲はとても綺麗な曲で、理想を遥かに超えたものでした。そしてKASHIWAさんもすごい人なのに、とても丁寧で優しい方でした。初めての曲をおふたりと創れたこの時間が何よりの宝物です。
これから歌詞のある曲を書く予定ないので、これが私自身にとって最初で最後の曲だと思うけど、本当にあの時決起集会に参加した時に、曲を創って良かったなと思いました。
ただ奇跡はこれだけで終わらなかったんです。むしろここからが奇跡というか。
それは
素敵な曲だから、1年間だけ限定配信リリースしてみましょう。
しかも全て会社が費用を持ちますからというものでした。すごい話だなと思いました。曲ができるだけでも奇跡なのに、それを超える奇跡が起きるとは思ってもいませんでした。
それぐらい良いものができたんだなと本当に嬉しかったです。ただ自分の曲を売り込む方法がよく話からなったので、その時は全く売れずでした。(笑)やっぱり何事にも努力は必要で、売り込むのもその一つだなと思いました。もしかしたらあの時、売り込む努力をしていたら何かが変わっていたのかもともたまに思ったりもしますが、もう過ぎてしまったことなのでどうにもなりません。
ちなみに1年間だけの予定でしたが、2年か3年ぐらい延長していただいた気がします。
それでも売れませんでしたが。。。
海外のレコード会社との契約
クラウンツアー
ちょうど月華を作る前か、同じぐらいに、パッチアダムスのワークショップに参加する機会がありました。それは世界中のクラウンが集まって、色々なケア方法を学べるというもので、とても魅力なものでした。しかも場所はゲズントハイトでした。ゲズントハイトとは、パッチが設立した、愛とユーモアを治療の根底においた病院で、そこでしばらくの間無料で診療が行われていた場所です。実際に映画にも出てきており、一度は行ってみたかった場所でした。
そしてその時の課長に長期休暇を取るための相談をした結果。
『何かを学んで、病棟に生かせるなら行ってもいいよ。』
と言われました。『もちろん。生かせます。』と答えて承諾を得たのを覚えています。ただその時は生かせる自信は正直ありませんでした。ただ行ったら何かが変わりそうという予感だけはしました。
そして到着してびっくりしたのが、とにかく敷地が広いことです。ここでしばらく仲間と一緒に過ごせるということだけでワクワクしたことを覚えています。

近くには池もあり、釣りもしました。何も釣れなかったけど(笑)

ワークショップはそれぞれの国のクラウンが1人1人やってくれるのですが、楽しみながら学べました。
全ては覚えていないけれど、人は体に触れていなくても、近くに手を添えるだけでもあったかい気持ちが伝わってくるとか、いろんな人とハグをすることでハグの大切さをみんなで学んだり、みんなで穴を掘って、泥風呂を作って、みんなで童心に帰ることでそれが自分自身のケアにつながるとか、いろいろなケアの方法を知りました。そして特に素敵だなと思ったのが、みんなで輪になって、誰か1人のいいところを伝えて、花を渡す。そして受け取った人も誰かのいいところを伝えて、その人に花を渡す。全員のいいところがいい終わったら、最後は司会者のいいところを伝えて花を渡す。このアクティビティを通して、みんなが笑顔になったのを覚えています。
ちなみに彼がパッチアダムスです!(笑)楽しそうでしょ?(笑)

この穴も朝からみんなで掘ったんです!

とにかくいろいろなことをしました。朝とか夜とかみんなで集まって話をしたり、散歩をしたり、遊んだりするのも楽しかったです。
ちなみにここがゲズントハイトです!この中で研修したり、ご飯食べたりした気がします。



そしてここで1番自分自身が学べたことは、
ケアには正解がないということ
だから自分自身が届けたいこと、やってみたいことをケアに繋げればいいのではないかと考えるようになりました。もちろん、全員が楽しめるものを作るのは不可能です。私が思い出せるワークショップは上記に書いたものですが、それ以外のものが印象に残っている人もいると思います。それぐらい人によって捉え方は様々です。そのことが分かっただけでも参加した意味があったと思っています。
ちなみに今年は日本で開催されるみたいだけど、もういっぱいみたい。やっぱり人気があるんですね↓
ちなみにパッチとも初めて話をしました。ここには書かないけれど、やっぱり素敵で魅力的な人でした。一緒に撮った写真も書いてくれたメッセージも今でも宝物です。
またどこかで会えるといいな。
私自身ができること
クラウンツアーは世界中のクラウンが集まってくることもあり、みんなで出し物をする時間もありました。グループで何かをするのもありだし、一人で何かをするのもありだったので、そこで初めてピアノでインストを演奏をしました。これがピアノで作った曲としては初めての曲でした。その曲も反応が良くて、看護師というよりも音楽家として認知されることになりました。それは正直看護師といして認知されるよりも嬉しかったです。
その曲は、本当に勢いだけで創った曲なので、いつかちゃんと創り直してみたいなとは思っています。
それからは
音楽を使ったケアをしたい。
と思うようになりました。
突然のメール
それから音楽を暇なときには創るようになりました。そして幸運なことに家から5分ぐらいのところに音楽教室兼スタジオがあったので、そこに通いました。作曲の幅を広げるために楽器ができることに越したことがないと思い、ベースとドラムも習いました。あとは作曲についても学びました。
最初はGarage BandというMacに入っているものを作って作曲を初めて、そのあとはLogic Proを使うようになりました。先生に質問したり、この本で勉強したりしながら少しずつ曲を創っていけるようになりました。
そして出来上がった音源をSoundCloudにアップし始めたんです。最初は聴いてくれている人がいるだけで嬉しくて、どんどん思いついた曲を形にしていきました。そんなある日1通のDMが届いたんです。
あなたの曲をリリースしてみませんか?


お金かかるんですか?
全てこっちでお金は出しますし、ミックスやリマスタリングもします。ジャケット写真もこちらで作れます。


ちょっと考えます。
まさに怪しさしかないメールでした。(笑)
詐欺のようにも見えるけど、デメリットがないだけに詐欺でもない。
一応確認しましたが、ウィーンに存在するレコード会社みたいで、実際にグーグルで検索してみると存在はしているようでした。
そしてまわりの人に相談してみてわかったのが、みんなの意見も私の意見と同じで、こっちのデメリットがないならやってみてもいいんじゃないかなというものでした。ミックスとかリマスタリングをしてくれたり、ジャケット写真を作ってくれたりするだけでもメリットしかないと思い、所属することに決めました。
海外レーベルとの契約と音楽活動
それから1年に1枚シングルを出すような感じで3年間そこでお世話になりました。そのあとは、作曲をしている時間が少しずつなくなり、自分のシングルも売れている感じもなかったので、自然とフェイドアウトしていきました。そして最近またその会社を調べてみたらホームページがなくなっていたので潰れていました。おそらく。
でも本当にお世話になった気がします。意外とちゃんとこっちの要望も聴いてくれて、3枚も一緒に創って、配信できたのは本当に良い思い出です。そして本当にかからず、一銭も払うことはありませんでしたが、受け取ることもありませんでした。(笑)というのも3ヶ月に1回売り上げに関する明細が届くのですが、ほとんど売り上げはありませんでした。おそらくその売り上げを配信手数料に使っていたのではないかなぐらいのお金でした。
それを聞いたらやっぱり騙されでるんじゃないかと思われるかもしれませんが、売り上げよりも楽曲制作に重点を置いての所属だったので、お互いにとって良い形の契約だったのかなと思います。それにこうやって『海外レーベルと契約したことがある』という肩書きもできたので、今はとても満足しています。
ちなみにその中の一曲が知らないうちにコンピレーションアルバムに習得されていました。これが存在するということは、どこかでまだレコード会社は存続しているのだろうなと。ちょっと懐かしくなりました。
外来を閉鎖して行ったイベント
ボランティア活動
パッチアダムスとの研修で学んだことを活かしてみようと思いましたが、中々自分自身の病院ではしにくいところがありました。それは19階建ての大学病院で、すべての科が入っているような規模が大きい病院だったからです。とてもじゃないけど、1人のスタッフの意見で動かせるものではありませんでした。
なのでひっそりとクラウン仲間と施設をまわって音楽のレクをするという活動をしていました。仕事終わってみんなでスタジオに集まって練習していたのですが、その時間も本当に楽しかったです。ボランティアでしたが、私たち自身も楽しんでいました。
そんなある日、課長とその話をした時に、
うちでもやってみたら
みたいな話になったんです。
ただ大きな病院だし、そんな簡単にできるものではなくて、経歴とやりたいことを書いて看護部に提出してみようと言われました。気が付けば、AAの紙1枚半ぐらいになっていた気がします。
打ち合わせの日々
そこから副看護部長に会って、打ち合わせの日々が始まりました。そしてその時ちょうど看護研究もやっていたので、病棟で働いて、打ち合わせして、息抜き(看護研究)をするみたいな感じでした。(笑)
看護研究って大変なイメージあるし、やりたくないイメージってあると思うけど、本当に楽しかったです。その話はたまにメンバーでも話したりします。ありえないぐらい楽しかったよねって。(笑)真面目にやっていなかったわけではなくて、夜遅くまで3人で論文書いたり、アンケート収集したり、学会でちゃんと発表もしました。なのでしっかりやることはやりました。
それはさておき、どんなことをやりたいのかは頭の中にありました。
それは
五感を体感できるイベントにしたい
というものでした。
まずは企画書を作成することから始まりました。それは、看護部だけでなく、あらゆる部署宛にでした。それはイベントの規模が大きすぎて、病院の全部署に通達をしないといけなかったからです。その企画書が通ったのが企画して半年ぐらい過ぎた頃でした。そのあとは演者と連絡をとって計画を立てたり、チラシを作ったり、1つ1つの病棟に声をかけに行ったりと本当に大変でした。
そして五感についてのアプローチは以下の通りでした。
本番当日
当日はスタッフだけでなく、看護師長さんたちや友人も手伝ってくれて、何とかイベントを終えることができました。演者の方々は完璧なパフォーマンスをしてくれたのですが、私自身が外まわりしながらのメインMCだったこともあり、進行がグダグダでそこだけ事後アンケートで酷評を受けました。
ただそれ以外は良かったのではないかと思っています。その功績もあってか、病院で表彰されたり、次のイベントもお願いされたりもしました。長いこと勤めている警備の人に、こんなに人が集まったイベントは見たことないと言われたので、スタッフの心にも残るようなものになったのかなと思います。患者さんからもたくさん声をかけていただきました。その時はMCのグダグダなことを指摘されず、良かったという言葉をいただきました。そのあとも1回だけ、病棟でイベントをするのですが、それは小さな規模だったので、上手に立ちまわれた気がします。
大きなイベントは、本当にみんなに支えられてできたものたし、演者の方々も忙しい中集まってくれました。今はもっと忙しくなっていて、あの時期だからこそみんなで集めれてできたのだなと思います。
タイミングというのは大切で、そのタイミングを少しでも逃すと実現することはできない。
そんなようなことを改めて感じました。
本当に夢のような時間でした。もうできないかな。(笑)
旅行先での出会い
旅行計画
人生で1か所だけ1人でどうしても旅をしたい場所がありました。それがポーランドでした。
5日間しか休みが取れなかったため、5日間の旅行の計画を立てることにしました。その計画は今だったら考えられないようなプランだし、1人旅だからこそできた計画でした。
全て私自身でプランを作ったので、10万前後という破格の価格で旅行ができることになりました。それでも結構綺麗なホテルには泊まれました。
ちなみにここが泊まったホテルです。


本当に無茶苦茶なプランでしたが、当時の私にとっては完璧なプランでした。更にgoogleマップで予習した私にとっては怖いものなんてありませんでした。
計画通りにはいかない旅行
まずはロシアに降り立ったのですが、その時はオリンピックをやっていたのか選手たちが夜遅くまで移動したりしていて、夜も賑わっていて、安心な感じでした。だから意外と安心して眠れました。今考えると怖いけど・・・
そして2日目には無事にポーランドに入国ができました。
しかしながらついて大事なことに気がつきました。
電車が工事で、運行止めになってる・・・
旅行にトラブルはつきものです。私は1度冷静になり、現地の人に聞くことにしました。地図を見せながら必死で質問しましたが、
ごめん。英語喋れません。
絶望的な状況でした。もはや何もできないと思った矢先、5人目の若者が英語が話せたため、バスのチケットを購入することができました。本当にありがたかったです。そして帰国したら、観光客には優しくしようと強く思いました。
衝撃的な出会い
そしてバスに乗ると2人組の大学生に絡まれることになります。
あなた中国人?


・・・・・
ふふふ。あなた中国人?


(しつこいなと思いながら)いや。日本人です。
私たち大学生なの。今ドイツの大学の卒業課題の一環でポーランドに来ていて、今日はオフ日なの。あなたどこにいく予定なの?


ここ(ガイドブックを指差して)
私たちもここに行くの。一緒に行きましょう。


(1人で行きたかったのにと思いつつ)そうだね。
ということで、1人旅のはずが3人旅になりました。ガイドブックよりもガイドをしてくれて、たくさん説明してくれました。その後も教会に行ったり、ポーランドのおすすめ料理を食べに行ったりととても楽しい時間を過ごせました。ちなみにチップも日本人にはわからないでしょとのことで、代わりに払ってくれました。
ちなみにそれがその時食べた『ピエロギ』

その後は、撮った写真を送りたいから連絡先教えてと言われて連絡先を交換して別れました。
1人旅よりも友だちとの旅の方がやっぱり楽しいな
と改めて思いました。最初その人たちとは帰国後も連絡しあうぐらいの友だちになりました。あとで聞いた話ですが、そのうちの1人が日本と中国に興味が会って、どっちかに住んでみたかったみたいで、私に話かけてきたようでした。
結局その子は日本にその後何年か住むことになって、その間他の外国人の方と一緒に遊んだりするようになりました。みんなすごいフレンドリーで今思うとすごい時間を過ごせたなと感じました。
本当に面白い経験でした。
戦争と平和
アウシュヴィッツ強制収容所
ポーランドへの旅行と言って、ピンときた方もいると思いますが、本当に行きたかった場所はアウシュビッツ収容所でした。
海外で唯一ここの場所だけは1人で観たかったんです。
そのためにこの旅行を計画しました。
実は旅行を決めて、プランを決める時に日本人ガイドの中谷剛さんに連絡をしました。そして奇跡的にガイドの予約が取れたんです。ちなみに毎日ガイドをやっているわけではないのと、人数が集まらなければガイドはやらないとのことだったので、2日しかない日程でガイドをお願いできたのは本当に運がよかったです。
滞在していたホテルからアウシュヴィッツ強制収容所まではバスで1時間弱かかるのと、私が調べた限りではバスの本数も少なく、7時ごろのバスに乗らなくてはいけませんでした。そして早朝のためホテルのバイキングは食べる時間がなかったため、ホテルの人にお願いして、バイキングの食事を分けてもらってから出発しました。しかもそれが結構な量で、これも本当にありがたかったです。
記念にバイキングの写真だけ撮りました。(笑)

そしていざ小さめのバスを見つけ、運転手にアウシュビッツに行くか聞いて、行くとのことだったので乗車しました。ただ本当に小さい個人バスのような感じだったので本当に現地まで行けるのかどうか心配でした。なので運転手のすぐ後ろに乗って、集中して乗っていました。すると「オシフィエンチム」という名前が呼ばれ、運転手から「ここだよ」と声をかけられました。


実際に訪れてみてみないと伝わらないぐらい衝撃的な場所でした。
その日はガイドが終わった後も1人で閉館まで中をみていました。平和であることはそれだけで幸せなことなんだなと感じました。また建物の風化が進んできているとのことで私が行った時も崩れている建物が多々あり、興味ある方がいたら早めに来た方が良いと話していました。


またいつか別で写真とともにブログにまとめたいと思います。
知覧と広島
その後、別の休みの機会に知覧と広島にも行きました。
知覧では、知覧特攻平和会館に行きました。
そこには特攻隊として出撃する前の兵士たちの手紙や写真、私物が飾ってあり、その数は1000を超えていました。自分自身の境遇を悲観することなく、常に家族や大切な人の人生を想う気持ちや日本の未来を大切にする気持ちに溢れた手紙を読んでいくうちに涙が溢れてきました。こんなにも素敵な若者の命が・・・と思うと胸が張り裂けそうでした。今の日本が平和であるのは、あの時必死で日本を守ってくださった方々のおかげなのだと改めて感じました。
近くにはトメさんの食堂がありました。トメさんは、特攻隊員のお母さん替わりとなって話を聞いたり、明日飛立つ若者に食べたいものを自分の私財を投じて、食材を買い料理をしたりしていたそうです。特攻していった兵士が約束通り蛍になって食堂に帰ってきたという話は有名だと思います。

また
広島では平和記念公園資料館に行きました。
中学生のときの修学旅行以来でしたが、今見ると感じ方も違いました。本当に残酷な現実がそこにあったのだなと感じました。そこにはメッセージノートがあったのですが、海外の方もメッセージを残していました。その中でも特に印象に残っているのはアメリカ人の方たちの謝罪でした。それを見た時に留学していた時の歴史の授業を思い出しました。
アメリカで、真珠湾攻撃の話になった時、その場にいるのは本当に地獄のようでした。私自身も謝罪のメッセージを記入したアメリカ人の気持ちと一緒の気持ちでした。本当に申し訳ないことをしてしまったんだと。その時の先生は懸命にフォローしてくださりましたが、申し訳なさは消えることはありませんでした。
いつの時代も、どの国の人たちも戦争なんて望んでいない。望んでいるのは本当に一部の人たちだけなんだなと改めて感じましたし、戦争中の黒歴史だけで、その国の国民性を否定するのは良くないなと感じました。国籍関係なく、素敵な人は素敵な人だから。
本当にこの世から戦争なんて無くなってほしい。
そう強く感じた旅行でした。
ホスピス
看護師としてのゴール
東京を離れて、全く異なる環境に立ち、そしてそこでついに『緩和ケア病棟』で働けることになりました。不安はたくさんありましたが、やってみないとわからないという気持ちを持ってその世界に飛び込みました。
よく周りの人からは『私だったら働けない。看取るのは辛すぎるから耐えられない。』という言葉を聞きましたが、実際はちょっと違います。
確かに毎日のように旅立っていきます。ただそこにあるのは絶望ではありませんでした。最後まで自身の役割を全うし、病気と戦っている姿がありました。それはもう尊敬しかなかったですし、大切な時間を一緒に過ごさせてくださりありがとうございますという感謝の気持ちしかありませんでした。本当にたくさんのことを患者さんが生きる姿から学びました。そしてスタッフの方からも。
今でも思います。
この病院以上の医師や看護師、医療スタッフには一生出会えない
だろうなって。それだけでも看護師になった意味があったなと思いました。
最期のコンサート
そしてこの病棟では、音楽療法士の先生が来てくれていたのですが、その先生がいなくなるタイミングで少しだけ私もレクをさせていただく機会がありました。
そしてそれは
私のオリジナル曲を演奏するコンサート
でした。
そんなもの需要があるのかと思われるかもしれませんが、奇跡的に需要がありました。
通して5曲ぐらいを演奏していたのですが、病室から離れて、普段会わない人と会って、普段聴かない(聴いたことない)曲を聴くことで少しは気分転換になるかもということで演奏をしました。その演奏会を楽しみにしてくださる患者さんもいました。リクエストをいただくこともあり、リクエスト曲を演奏することもありました。
中には曲が欲しいということでCDにしてプレゼントした方もいました。患者さんが亡くなった後も病棟に来てくださり、今でも仏壇にCDを置いてあると話していました。
その時に改めて作曲をして良かったなと思いました。
ここでのコンサートは本当に貴重な時間でした。それは患者さんにとっては最期のコンサートになることもあることもあるからです。なので本当に1曲1曲、1回1回を大切に演奏をしました。
何回できたのかは数えていないのでわかりませんが、本当に貴重な経験だったと思いますし、今でも大切な思い出です。
生と死
子どもの誕生
子どもが生まれることもあり、子どもと関わる時間を大切にするために、看護師ではあるものの働き方を変えました。定時に帰れて、夜勤のない病院を探しそこに就職しました。
今までは人生の中心は間違いなく私自身でした。
しかし、子どもが生まれてそれが間違いなく変わりました。
人生の中心が子どもに変わったんです。
と同時に子どもに何か残したいと思うようになりました。何が残せるのだろうと考えた結果、自分自身の人生の記録を残そうと思いました。そこから何かヒントがあれば、使って欲しいと思ったからです。それはおそらく世界中で自分にしかできないことだから。
その中で私自身の夢も完結させるべきだなと思いました。
自分にしかできないことを見つけよう。
そう思って選んだ看護師の道なので、ここからは学んできたことを全てぶつけられるものを作ろうと決心しました。
そしてそれを始めるなら、育児で忙しい今(生後7ヶ月ぐらい)だなって思ったんです。それはもし子どもが大人になって、
自分のやりたいことが結婚してできなくなった
育児のせいで何もする時間がない。
と自分のやりたいことができない理由を”大切な人たち”にしてほしくなかったから。
友だちの死
そしてもう一つ大きな出来事が友だちの死でした。
どこかでやっぱり、いつでも友だちには会える。話ができる。遊べる。
そう思っていました。でもそうじゃなかった。
当たり前は当たり前じゃないんだなって。
会いたい時に、話したい時に、遊びたい時に遊ばないと次はないかもしれない。
その友だちとは、看護師の同期でした。仕事だけでなく、旅行に行ったり、遊びに行ったり、ホームパーティーしたり、本当に仲が良かったです。辞めた後も変わらず遊ぼうねって話してたけど、道が変わるとその道での新しい出会いが会って、やりたいことができて、そんなこんなでどんどん疎遠になっていきました。たまに連絡は来たりするけどそれで終わりな感じでした。もっとその後も連絡とったりすればよかったなとか、振り返ってみると思いました。
いつからか連絡しても返事が返ってこなくなったんだけど、それは闘病してて、メールが打てない状態まで担ってたからみたいで。そんなことも知らずにじぶんは普通に生活してて。
それがわかったのは『お別れ会』の時でした。
もっと一緒に話がしたかったし、遊びたかったな。
でももうそれも遅いんだよな。って。それが『死』なんだなと感じました。
いつまでできるかわからないけど、命日は忘れたくないから、その日に前の病院の同期と仲良しの先輩で作ったグループラインに一言投稿して、定期的にそのライングループを動かすようにしています。そうすればきっと忘れられることはないだろうなって。
そして
人生は思っている以上に短い。だからこそ本気で生きよう。
と強く思うようになりました。
夢と向き合う時
質より量
オンラインデイサービスを始めるに当たって、まずはコンセプトを決めて、とりあえず作成していこうと考えました
そしてコンセプトはやっぱり
オンラインでも五感を刺激できるデイサービス
あの時は五感のうちの味覚がどうしても再現できなかったけれど、今は何個かアイディアが出てきていて、これならきっとみんなが楽しめるようなものができるかもしれないと思いました。
とりあえず製作を始めたながら試行錯誤していきました。1日1本から初めて、2本になり、多い時は4本作る時もありました。早く形にしたい気持ちが強く、量をこなしていくことにしました。今考えると無謀だったと思いますが、もし週に1本とかでやっていたら、今の位置まで辿り着くまでおそらく10年近くかかっていたと考えると無理してでも作ってきて良かったなと感じます。
また動画の内容も基本的には流行りに流されないものになっているし、毎年需要があるものなので、今ダメでもこれから先何かのきっかけで広まっていくかもしれません。
それと同時にインスタでも宣伝するために医療関係の施設をフォローすることでアプローチも始めました。そのおかげもあり、少しずつですが活動が広まっていきました。
とにかく思いつくことは全てやろう。
そう思いやってきた結果少しずつですが、あの時考えていたことが形になってきました。
新しいアイディア
いろんな方法を模索していく中で、息詰まることも多々ありました。
そんなときはよくこんな風に考えていました。
大切な時間を削って挑戦した結果、何にも残らなかったどうしよう・・・
本当にそういうときは、頭の中が真っ白になり、大丈夫なのかなと心配になります。今でもその気持ちは変わらずにあります。
ただそういう時に助けてくれたのは友だちや尊敬する先輩たちでした。
貴重な時間を削ってたくさん話を聞いてくれました。そんなの当たり前でしょって思う方もいるかもしれませんが、全然当たり前じゃないです。本当にありがたいですし、いつか恩返しできるように頑張りたいと強く思うようになりました。
そしてその中で新しいアイディアをたくさんいただきました。しかもそれは私のやってきたことを反映させて導き出したアイディアのために本当に貴重でありがたい提案でした。このブログの作成もその中のアイディアの1つです。
前に五感のイベントを病院でやった時に、副部長に言われた言葉が
チャンスはいつやってくるかわからないから、いつでも対応できるよう常に準備しなさい。
その言葉通り、とりあえず私自身ができる最大の準備をしてきた結果、貴重なアドバイス(チャンス)に対応できてきたのだと思います。ひとつひとつのことがとても大切で、この夢を実現させるためには大切な要素のひとつになっています。
足跡
目標
『オンラインデイサービス苺一笑』は5年で完成させるつもりで始めました。
目標にしていた5年経った時に振り返る文章を書くためにここは開けておこうと思います。夢が叶いました。って書けるといいな。
最後に
人生はうまくいかないことの方が圧倒的に多いと思います。それはそこまでどれだけ努力していようがいまいが関係ありません。残酷ですがそれが現実だと思います。
だからこそ上手くいかなかった後の人生の方が成功した後の人生よりも大切なのではないかと生きていく中で感じました。
私の場合、全ては大学受験に上手くいかなかったことから始まりました。その長い旅の先にこのような人生が待っているとは思ってもいませんでした。あの時大学受験に成功して、日本の大学に進学して、就職する未来ももしかしたら楽しかったのかもしれませんが、今ならこちらの道を選んでよかったと思えます。
この文章を読んでいる方にとっても、上手くいかないことがあって、落ち込むことはあっても、立ち止まらないでください。きっとゆっくりでも歩いていけばそこから新しい道が見つかると思います。
そしてこういう物語が完成したら、また人生の分岐点が目の前に現れるのだろうなと思います。
上手く行っていれば、問題ないけれど、もし上手くいかなかったら、またこの文章の書き始めのような気持ちに戻るのかなと。
ダ・カーポ